おもしろプロダクション

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ヘタな関西弁、またはエセ関西人

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映画『きょうのできごと』で妻夫木くんたちのしゃべる関西弁を聞いていると背中のへんがムズムズしてくるように、関西人以外がしゃべる関西弁はどうしても不自然に聞こえるものだけど、何を隠そう京都で生まれ育った僕の関西弁もなかなか怪しいものがある。

中学生のときに担任だった国語の先生に「出身は京都ちゃうよな?」と訊かれたこともあるし、京都を離れて広島に住んだあと実家に帰省したときには、母親に「なにそのあんたのしゃべり方、気持ちわる」と言われたこともある。

自分ではネイティヴの関西人という自覚があるだけに、この認識の差はどこから来ているのか、いくつか可能性を考えてみたいと思う。

 

可能性その1)本当は関西人じゃない説

「人の記憶とは実際にあったことではなく、こうであってほしかったという願望が記憶されるものである」と誰かが言っていたけど、僕も本当は京都で生まれ育ったわけじゃなくて(例えば愛知県の片田舎育ち)、しばらくしてから京都の小学校なり中学校に転校してきたのかもしれない、という説。いわゆる記憶のすり替えですね。ちょっと無理がある。

 

可能性その2)本当は東京に憧れている説

京都の人はよく「天皇陛下は東京に仮住まいしてるだけ」「東京は東の京都、本当のみやこは京都だけ」みたいなことを言うという偏見を持たれているが(僕もたまにネタとして使うことはあるが)、実際はネタではなくて、本当に僕自身が東京への劣等感を持ち、それがやがて憧憬に変わったという説。だから口から出る言葉にも自分で気づかないうちに関東弁が混じるというもの。これはあながち外れていないかもしれない。

 

可能性その3)転校生リスペクト説

小学生のときに、他県から転校してくる生徒が何人かいた。小学生の狭い世界では、関西弁がグローバル・スタンダードというか、日常の登場人物全員が関西弁しかしゃべらないのは当たり前のことで、そんな世界に名古屋弁や関東弁の人が現れると、それはもう黒船に乗って外国人が現れたくらいのインパクトがあった。彼らのまとう雰囲気もどことなく落ち着いていて、大人びているように見えた。そんな未知の世界からやってきた大人っぽい小学生を羨望のまなざしで見つめるうちに、彼らの言葉が僕の中に入り込んできて、関西弁×名古屋弁×関東弁のミクスチャー人間=僕ができあがったという説。これもあり得そう。

 

まあ、ざっと思いつくのはこれくらいかな。

いずれにしても思うのは、程度の差こそあれ、混じりっ気なしのネイティヴの土地の言葉をしゃべる人というのは、小学校に入る前くらいまでの小さな子供か、あとはその土地で生まれ育ったお年寄りだけじゃないかというのが、僕がひそかに立てているもうひとつの仮説です。立証はまだされていません。